地の文
「母とは少なくとも日本人にとって『許してくれる』存在である。子供のどんな裏切り、子供のどんな非行にたいしても結局は涙をながしながら許してくれる存在である。そして裏切った子供の裏切りよりも、その苦しみを一緒に苦しんでくれる存在である。」(『…
大きな刃のついたレバーを持ち上げ、背表紙のところに合わせる。刹那、ふるえた。想像よりもずっと抵抗を手のひらに覚えながら、酔いに任せて引き落とす。 ざくり、と刃が沈んだ瞬間、下腹部から不本意な欲情にも似た熱が突き上げてきた。 仔猫や赤ん坊が可…
「そうじゃなくて。だって自炊って」 と言いかけて。しょせん母は向こう側の人なのだ、と実感した。自炊と聞いただけで生理的な嫌悪がまったく湧かないなんて、私には信じられなかった。 自炊ということは。 本を、切るのだ。 ばっさり裁断して、データとし…
意味が分からず、せめてなにか読み取れるものはないかと横顔を見つめる。灯は少し間を置いて、唇の端を柔らかく崩した。 「そうっと黙る感じが、透さんだね」 「そうかな」 「あなたほど、まじめに誰かの話を聞く人に、会ったことない」
灯は楽しそうにメリーゴーランドを見ている。コーヒーもココアもすっかり冷めてしまったけれど、二人を包む空気は薄手の毛布のように心地良い。こんな沈黙があるんだ、と胸で呟き、高嶋は灯の横顔を見直した。
タベルナとはイタリア語で「居酒屋」という意味らしいが、ギリシャでは気軽に入れるレストランのことを、こう呼んでいるようだ。レストランなのに「タベルナ」だなんて。
まださきになるかもしれないけれど、いつか私も、胸の火をだれかにそっと分けよう。そのひとが凍えることのないように。安心して夜道を行けるように。
「夢……見てた」ぼんやりした声で言う。 「おまえ、白いワンピースよく来てただろ。小さなころ。母さんがミシンで縫った。それ着た小さなおまえがそこにいるのかと思った」 そう言いながら、私が来ているワンピースを指さす。水色の薄いストライプが入ってい…
ゴトン、ゴトン、ゴトンゴトン、ゴトンゴトン。 屋根続きの小屋のような二両編成の列車が、次第に遠ざかる。列車はキャラメルの箱になり、ビー玉になり、やがて小さな小さな点になって、夏空の彼方に消えていった。